下唐櫃の清水が原で発生したチップ材を、六甲山上ブナの道まで担いで上がった。参加者は25名、最高は15kgで、平均8kg位だとすると200kg程度になる。この区間の詳細は私有地ですので記載しませんが、図にあるように下唐櫃林産農協、上唐櫃林産農協、有野更生農協、阪神電鉄の土地を通っていく。

実は、いずれも昔の唐櫃村起源の山林です。明治22(1889)年、唐櫃村は有野村、五社村と合併して有野村となったが、有野・五社の両村が平野地の農村であったのに対し、唐櫃村は六甲山の北側に位置する六甲山系の山村であった。山の木草は、薪炭、燃料であり、エネルギー源として重要だった。このため、旧有野村になった際に、旧村の権益を守るために区を設立して、独立した財産管理をしていた。合併から26年経過した大正15年には村全体の財産と地域の財産を区分することになり、村有林と上と下の唐櫃の共益林に分割されたものである。その後昭和22年に神戸市と合併した際に、やはり旧村の権益を守るため、神戸市有林とはせず、農事組合として管理することになり、これが有野更生の所有林となっている。

一方、山上に阪神電鉄が土地を所有しているのは、六甲山上の観光開発に合わせて買収したものであるが、その背景には、先に説明した山林の権益について、所謂表六甲との諸村との争いの結果となる。旧住吉村などと入会の権利について、大審院(現在でいえば最高裁)まで争い負けた唐櫃村は、表側諸村の地益入会権を解消するために、阪神電鉄に売却をしたものである。阪神電鉄は別荘地などとして販売もしたが、概ね分水嶺から北側に土地を所有している。

山については、土地所有者が居ることを意識しない方も多く、山の恵みの写真をSNSにアップされている方も多く見られるが、土地には所有者がいることを覚えていて欲しいと思う。

唐櫃では明治の終わりから植林されるようになり、1918年には森林施業按が策定されており、写真でも分かるように、スギ林が続いている。

目的地のブナの道は、森の音ミュージアム(旧オルゴールミュージアム)の横にあり、数年前に、人と自然の博物館で育成していた六甲山のブナ及びイヌブナを植栽したものであり、当初はこの道を覆っていたアセビを伐採し、それをチップ化したものを散布したものであり、唐櫃の人工林と直接の繋がりはなかったが、今回このルートを歩くことで、改めて唐櫃の山林の歴史を確認したところである。

唐櫃から六甲山上まで

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